飛鳥川の東岸、飛鳥寺の北西に位置し、飛鳥寺の寺域の北西隅の西方が水落遺跡、その北が石神遺跡である。 水落遺跡は、7世紀後半の建物の礎石群のある方形基檀を持つ遺跡である。 基壇(一辺約22.5メートル、高さ約1メートル)は自然石を三~四段積み上げた正方形のもので、周囲に底幅1.8メートルの濠状の溝を回す。この基壇の上に、方四間総柱(柱芯一辺11メートル)の楼閣が建っていたものと見られる。 基檀中央に据えたママ石には、柱の底をかませたくり込みがあり、さらに礎石には、縦横斜めにも梁石を連結させ、堅固に据えている。基檀中央には台石に据えた漆塗の箱を設置し、これに向かって八釣川から導水した木樋暗渠や、サイホン方式の桶水に用いられたと見られる銅製の銅管が検出され、また冬季には氷結防止のため温めていたらしく、炭が出土している。これが漏刻と漏刻台と考えられている。 Facebook
石神遺跡(いしがみいせき) 石神遺跡は明日香村埋蔵文化財展示室がある一帯に存在する遺跡で、発掘調査で掘立柱建物群や方形池などが見つかっている。明治35年~36年には噴水機能をもつ須弥山石や石人像といった石造物が遺跡の一角から掘り出されている。 これまでの調査成果から石神遺跡は大きく斉明朝,天武朝,藤原宮期の三時期の遺構が明らかとなっている。中でも斉明朝の建物群は当時、蝦夷や外国人使節をもてなし、服属儀礼や饗宴を行う飛鳥の迎賓館であったと考えられる。
雷丘(いかづちのおか) 『日本霊異記』と『日本書紀』に雷丘に関連する伝承が記されている。 『日本霊異記』によると、 雄略天皇が后と寝ている所へ、家臣の小子部栖軽(ちいさこべのすがる)が気付かずに入ってしまい、天皇は照れ隠しと腹いせに、雷がなっていたことをよいことに、栖軽に「雷神を捕らえることができるか」と命じられる。栖軽は豊浦寺と飯岡の間にある丘に落ちていた雷神を輿に乗せ、連れ帰り天皇に献上するも天皇は光り輝く雷神に恐れをなし「落ちていた所へもどしなさい」とお命じになった。数年後、小子部栖軽が亡くなると天皇は彼の忠義を讃え、七日七夜祭られた後この丘にお墓と墓標(「取雷栖軽之墓=雷神を捕らえた栖軽の墓」)を建てた。これに腹を立てた雷神が栖軽の墓標を踏み潰すが、その割れ目に足か挟まり、再び捕らわれてしまう。天皇はこれをお聞きになり雷神を解き放たれた。そして再び「生之死之捕雷栖軽之墓」(生前も死後も雷神を捕らえた栖軽の墓)と記した墓標を建て直したとのことである。そしてこの雷神が落ちていた所を雷岡(雷丘)と呼ぶようになった。 とのことである。 また、万葉集には 『大君(おほきみ)は 神にしませば 天雲の 雷(いかづち)の上に 廬(いほ)りせるかも』 (大君は神でいらっしゃるので天雲の中にいる雷の上に仮の宮殿をお造りになっていらっしゃることだ) という柿本人麻呂が読んだ歌がある。
藤原鎌足公誕生地(ふじわらのかまたりこうたんじょうち) 藤原鎌足は推古天皇の二十二年(614)大和国高市郡の生まれとされ、その誕生の地とされている場所が、ここ明日香村小原(オオハラ)にある大原神社である。 ここには「大織冠(たいしょっかん)誕生之旧跡」という石碑が建っている。「大織冠」とは天智天皇が死の床にあった中臣鎌足に、「藤原」の姓とともに授けた大臣の位であり、正一位に相当するという。なお、「大織冠」という位を授けられたのは中臣鎌足と百済王の扶余豊璋の二人のみである。 大原神社の奥を流れる「中の川」のほとりには「藤原鎌足産湯の井戸」も遺されている。
7世紀後半から8世紀初めの律令国家形成期の貴重な総合工房跡。 飛鳥寺と飛鳥京に隣接する都の中心地に設けられ、工房地区と工房群の管理地区とからなる。 工房地区からは金属製の人形や針、飾り金具や、ガラス、水晶などの玉類、漆工芸品、それらの製作用具などが出土。日本最初の貨幣とされる富本銭もみつかった。 管理地区からは天皇家に関わる木簡も多数みつかっている。 Facebook
飛鳥浄御原宮内郭の北西で検出された庭園の池の遺構。 池は石積みの護岸がなされ、底には石が敷き詰められていた。 また一部には島のようになった石積みもみられた。 池の南側には、高さ1.65mの噴水用の石造物が設置され、導水用石造物である出水酒船石と組み合うことがわかった。 遺構は『日本書紀』の天武14(685)年に記された「白錦後苑」の一部と推定されている。